上海に残る、日本人の足跡を巡る旅①「旧日本海軍特別陸戦隊本部」

外灘 (バンド) や戦下に多くの日本人が居住していた虹口区には、租界時代の歴史ある建物が数々残されていますが、今回は上海特別陸戦隊の司令部として利用されていた「旧日本海軍特別陸戦隊本部」の探訪記をご紹介します。

上海海軍特別陸戦隊とは?

別称「上陸 (シャンリク)」とも呼ばれていた上海海軍特別陸戦隊は、日中が激しい市街戦を行った上海事変 (1931年) をきっかけとし、上海にいた日本人居留民の保護、日本租界の防衛などを目的とし、1932年から上海に常駐した大日本帝国海軍に属する陸上部隊のこと。

上海事変の様子 出典:Wikipedia

当時の上海には28,000人ほどの日本人居留民が暮らしていたと言われており、その多くが居住していた虹口区に「上陸」の本部を置き、この「旧日本海軍特別陸戦隊本部」のビルをベースにしていたのです。

旧日本海軍特別陸戦隊本部 (日本海軍特別陸戦隊司令部旧址)

「旧日本海軍特別陸戦隊本部」は、上海事変後に建てられた鉄筋コンクリート4階建てのビルで、一説によると1924年に建造されたと言われていますが、実際は1933年頃から上海海軍特別陸戦隊の司令部として使用が開始され、日本海軍が上海を統治する中心として機能していました。

住所は四川北路2131号に位置し (四川北路x東江湾路)、ビル内のテナントに関しては、少し前までは1階は銀行や商店などが営業し、2階以上は城市之家酒店というホテルが入居していましたが、現在はごらんのとおり全て閉鎖されています。

1938年当時の様子 出典:Wikipedia

何の事前知識がなければ、ここが歴史的背景のある建物だとは誰も気づかないでしょうけども、建物の裏通りの黄渡路沿いにの壁面にはひっそりとプレートが掲げられていて、そこには以下のように記述されています:

<日本語要約> 『旧住所「東江湾路1号」、戦時中に日本侵略軍が上海の大本営として利用し、ビルの外観はまるで海上の軍艦のよう。1924年に建造され、敷地は6130㎡。四方をオフィスビル・倉庫が囲み、中庭には2200㎡のグランドがあった。二度の上事変では日本の軍国主義者がここから出動。

1937年に上海陥落後、日本海軍が統治する上海の拠点となった。1945年8月に第二次世界大戦で日本投降後、中国国民党政府がこの建物を接収し、淞沪警察の司令部や上海港口司令部として利用され、1949年の上海開放後からは人民解放軍が接収使用中。』

出典:Wikipedia

戦争がもたらす痛みや苦しみを考えると、いかにいまが平和で恵まれた環境にいるんだろう、と思わずにはいられませんが、戦争が無意味で空虚なものであることを後世に伝えるためにも、このビルがこれからも存続することを願います。

出典:映画『上海陸戦隊』

ところが、1階の利用状況を見る限りでは、このビルがいつ壊されてもおかしくないであろうことは想像に難くありません。。「負の遺産」という側面がある歴史的な建造物ではありますが、少しでも長く保存されると良いですね。

原節子も出演する記録映画『上海陸戦隊』

当時の様子を詳しく知るためには、1939年 (昭和14年) に上映された記録映画「上海陸戦隊」を見るとよくわかります。この映画の舞台は1937年 (昭和12年) 8月の上海で、日本軍と中国軍が抗戦を始めた第二次上海事変時の様子が、セミドキュメンタリーのタッチで描かれています。

映画内の旧日本海軍特別陸戦隊本部

日本軍が撮影に協力して現地で撮影が行われたため、兵器なども実際のものが使われており、貴重な「記録映画」としてしての側面も大きい映像です。

旧日本海軍特別陸戦隊本部の裏通り、1937年当時 (上) と2020年現在 (下) の様子

リアルなドキュメンタリー映画かと思ってたら、途中から女優の原節子 (下写真) が出演するなど、これが「セミ」ドキュメンタリーの映画であることをヒシヒシと感じさせてくれるんですよねぇ。

周辺は「多倫路文化名人街」「魯迅公園」など、見どころ満載

旧日本海軍特別陸戦隊本部の向かい側には1998年に観光用に整備された路地「多倫路文化名人街」があったり、魯迅がよく散策していた「魯迅公園」や「魯迅故居」があるなど、見どころが満載です。

多倫路文化名人街

かつて魯迅や郭沫若 (中国の近代文学・歴史学の先駆者) などの文化人、金子光晴 (詩人)、尾崎秀実 (ソ連のスパイとして処刑されたジャーナリスト) らが住んでいたエリアで、租界時代の建物が数多く残るストリートが、この多倫路文化名人街。

通りには骨董店、古道具店、趣のあるカフェなどが建ち並び、外れには魯迅の小説「孔乙己」に登場する居酒屋「咸亨酒店」も。他には世界でも珍しい中華風な教会があったり、ブラブラ散策するだけで楽しいエリアです。

魯迅故居と内山書店

多倫路文化名人街から少し歩くだけで、魯迅故居と内山書店にたどり着けます。魯迅故居には、魯迅が1936年になくなるまで最後の3年超を過ごした場所で、実際に使われた家具などがそのまま残されています。

魯迅 (左) と内山完造 (右)

当時、“反体制文学者”の思想犯として追われていた魯迅ですが、彼が隠れ住む場所を支援するなど、非常に親しくしていた日本人の一人が内山完造。彼が経営する内山書店は魯迅ら中国の文化人が集うサロン的な役割を果たし、日本の谷崎潤一郎や武者小路実篤らもたびたび訪れました。今は銀行となっていますが、まだその建物が残されているのは嬉しいものです。ちなみに、神保町にも中国語書籍を扱う内山書店があるので、一度訪れてみたいものです。

魯迅公園

魯迅故居から地下鉄の虹口足球场駅の方へ向かうと、魯迅公園にたどり着けます。かつては虹口公園と言われていましたが、中華人民共和国成立後に「魯迅公園」と改名されました。

魯迅がかつて散策を楽しんだ公園内には、現在、魯迅記念館や墓があります。記念館内には魯迅の原稿や写真、遺品などが展示されており、内山書店という名前の売店もあります。なんか粋な計らいですよね。

まとめ

旧日本海軍特別陸戦隊本部があるのは、日本租界があった頃の歴史や文化が凝縮した、非常に興味深いエリアです。かつて上海にいた日本人の大半が住んでいたにも関わらず、現在、ここに住む日本人は非常に少なく、それがゆえ日系のスーパーやレストランなども限られていて、決して今の日本人が住むのに便利な場所ではありません。

多倫路文化名人街にある歴史的建造物

しかしながら、気軽に (時には重い) 歴史に触れられるというのも、とても貴重ですから、機会があれば実際に短期間でもここに住み込んで、もっともっと色んなことを知りたいものです。そのためにも、まずは魯迅の小説を読むところから始めたほうがいいかなぁ、と思っている次第。

それにしても、魯迅って、最後は17歳年下の教え子と駆け落ち同然の生活をしていた、やり手 (?!) だったんですねぇ。男としても、興味深い人デス!

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