海のシルクロードの起点として栄華を極めた、世界遺産『泉州』
福建省の南西部に位置する泉州市。ここは「北の西安、南の泉州」と言われるほど歴史と文化で有名な古都であり、かつては「海のシルクロード」の起点となり、東西の文化が融合する場所として栄華を極めました。
特に中国古代の「宋朝」、マルコポーロが立ち寄った「元朝」時代には世界最大の港と言われるまでに。ペルシャやアラブから来航した数多くの商人がここ泉州を拠点とし、市内には中国で現存するものでは最古と言われる立派なイスラム寺院も創建されました。
様々な文化が入り交じり、他の中国の都市とは一見してまるで違う、異国情緒溢れる泉州は2021年に世界遺産に登録されたばかり。その影響で近頃は観光客が増える一方ですが、そんなホットな泉州を訪れた際の様子を、その魅力を、ここでお伝えします!
そもそも、「泉州」ってどんなところ?
泉州市は厦门 (アモイ) の北東75kmに位置し、厦门や省都の福州と同じ「福建省三大都市」のひとつ。街の北に5A認定 (国家级AAAAA级旅游景区) の清源山がありますが、そこで湧く「虎乳泉」が「泉州」という地名の由来で、大阪南部の「泉州」地域とは特に何の関係もありません、、(!)
が、この清源山から眺める泉州旧城の姿が「鯉」の形に似ていることから、別称「鯉城」とも呼ばれています。西安や京都などの古都は碁盤目状に街が設計されていますが、泉州は目の前を流れる川「晋江」の流れや水路に合わせて街が築かれたため、泉州旧城の城壁が変則的に形づくられ、最終的に「鯉」の形になったということです。
また、泉州は一年を通して温暖な気候なので「温陵」とも呼ばれ、実際に2月に滞在した時も気温20度を記録していたほど温暖です。
泉州市の居住人口は878万人で、なんと、福建省では最大 (アモイは516万人、福州は868万人 [2020年])。泉州近郊には「靴都」晋江、「服装城 (アパレル城)」石獅、「石材城」南安、「瓷都 (磁都)」徳化、「茶都」安渓などの特徴的な産業を誇る個性ある都市を有し、辺りの1人あたりGDPは福建省有数を誇ります。
文化的には浙江省南部、広東省東部、海南省、台湾、福建省南部を中心とした「閩南 (mǐnnán)」文化エリアに属し、東南アジアで別名「福建語」とも呼ばれている「閩南語」が話されています。泉州人は東南アジアや台湾に多く進出し、特に台湾では全人口の40%が泉州出身と言われているほど。なので、上記エリアでは北京語ではなく、閩南語が共通語として常々使われるそうです (驚)。
海のシルクロード出発点、栄華を極めた国際都市「ザイトン」
唐代に海上交易の拠点となり、「海のシルクロード (別名:海の道、陶磁の道)」の出発点として発展していった港町の泉州は、元代には世界最大の港になるまでの発展を遂げ、かのマルコ・ポーロをも驚かせる存在になりました。そんなひととき栄華を極め、その後衰退に至るまでの泉州の歴史を、まずは簡単に追っていきましょう。
唐代に港町として栄え、元代に世界最大の港に
唐の時代 (618-907年) には海上交易が発展し、中国〜ベトナム〜インド〜アラビア半島にまで及ぶ、立派な海上ルートが確立されました。当時、泉州は広州や明州 (今の宁波 [寧波]) と並ぶ貿易港として栄えたのですが、アラブ人やペルシア人などの外国人商人が数万人単位で犠牲になった揚州大虐殺 (760年)、広州大虐殺 (878年) の影響を受け、国際貿易が泉州や福州に集中していきます。その後、福州では闽国建国 (909年) 後の内乱で治安が悪化、結果的に泉州が貿易港としての影響力を更に強めて行きました。
そして、南宋 (1127-1279年) の都がそれまでの西安や開封といった遠方ではなく、隣接する浙江省の杭州に置かれ、泉州はこれを機にさらなる発展を遂げます。
元 (1271-1368年) の時代にはフビライ・ハーンに協力したアラブ人商人として財を成した蒲寿庚 (ほじゅこう) が福建水軍の司令官として活躍し水軍勢力を強化、その影響もあって泉州は当時中国最大だった広州を凌ぐ規模となり、人工50万人 (!!!) を抱える世界最大の港となったのです。
国土交通省のデータによると、鎌倉幕府の成立した1192年時の日本の総人口が757万人と言われており、鎌倉の都の人工が6万人ほどと推定されているので、当時の泉州の規模がどれほど巨大であったのか、容易に想像がつきますね。
「海のシルクロード」を経て、日本刀が大人気に
このように港町として巨大な発展を遂げた泉州は「海のシルクロード」の拠点となり、アラブ人やペルシャ人など多くの外国人が居住、イスラム教徒やヒンズー教徒など様々な宗徒が共存する国際的な都市となっていきます。
海のシルクロードを通って中国の陶磁器、絹織物、茶、羅針盤といった品々が、泉州から東南アジア〜インド洋〜アラビアへと輸出され、また、インド洋周辺各所からは大量の香辛料、象牙、翡翠などが泉州に持ち運ばれ、都のある浙江省やその隣の江蘇省にて売られました。
当時は日本とも積極的に貿易が行われ、絹織物、シルク、アロマ製品、銅銭、陶器、書籍等が日本へ運ばれます。仏教においても多くの交流がなされ、それに伴って最新の木版印刷技術が日本へもたされました。日本からは砂金、水銀、杉の木、美術工芸品、日本刀などが中国へ運び出され、その中でも特に日本刀は重宝されたようです。
現在、北京大学で研究員を務める沙志利氏の記事によると、中国では「北宋時代に日本刀はその鋭さと美しさから『宝刀』と称えられて」おり、その理由として「日本刀は当時の中国刀と比べると鋭さが尋常でなかったため、中国人に好まれ、価格も非常に高かった」と紹介されています。
その人気ぶりは、歴代の文人が日本刀を詠んだ作品を数多く残したことから窺い知ることができます。欧陽修の作と言われる『日本刀歌』では「貿易の取引で海の東から来た。鞘は魚の皮で飾ってあり美しく、黄と白の真鍮と銅が使われている。たいへん気に入り高い値で手に入れた、身に着けると魔除けになる」と綴られています。どこかミーハーな感じがして可愛いですねw
旅人マルコ・ポーロやイブン・バットゥータも絶賛した「ザイトン」
泉州の発展ぶりは、社会科の授業でも習ったマルコ・ポーロの『東方見聞録』でも紹介されており、その中で彼は泉州を「Zaiton / Zayton (ザイトン、アラビア語でオリーブを意味)」と称し、ザイトンは「アレキサンドリアと並ぶ、世界最大を誇る二大海港」「アレクサンドリアの百倍にあたる百隻の船が入港する」街であると絶賛。
また、14世紀に泉州を訪れたモロッコ生まれの“大”旅行家、イブン・バットゥータは著書『三大陸周遊記』で泉州を「数え切れないほどの船が停泊する世界最大の港」と紹介しています。ちなみにこのイブン氏は「世界で最も長い距離を旅行した人 (参考) 」と言われており、その距離は28年間で推定75,000 マイル (約12万km) !!! マルコ・ポーロの旅路総距離が1万5000kmと言われているので、イブンのクレイジーぶりが際立っています。。
それはさておき、この「ザイトン」の名は当時、世界広く知れ渡っており、物語集『アラビアンナイト / 千夜一夜物語』の『船乗りシンドバッド』でも記載が見受けられることからも、中世イスラム世界でも知られた都市であったことがわかりますね。
栄華を極めたザイトン、その衰退まで
前述のとおり、元アラブ人商人の福建水軍司令官、蒲寿庚 (ほじゅこう) の活躍は目ざましく、それに伴い当時の泉州の造船技術は世界最高水準に達していたと言われています。実際、巨大船団で日本に来襲した元寇 (1281年 弘安の役) の際は600隻がこの泉州から日本へ向かったそう。
しかし、そんな泉州の栄華がいつまでも続くわけもなく、明代 (1368-1644年) には晋江に堆積した土砂の影響により泉州の港湾機能が低下し、港湾都市としての役割は北の福州、南のアモイに徐々にとって替わられることになります。
そんな自然の摂理にはあがなえずに衰退の道をたどった泉州ですが、2021年に泉州市内22件の遺跡群が世界遺産として認定され、ごく最近、再び日の目を見ることになったのです!そんな「世界遺産・泉州」の実際の魅力を、次からご紹介していきます。
2021年、泉州22件の遺跡群が「世界遺産」に登録!
さて、この記事を執筆するにあたり、調べれば調べるほど泉州の偉大さには圧倒されるばかりなのですが、ある日、微信 (WeChat) の朋友圈 (モーメンツ) にアップされた友人の泉州旅行記を見たのをきっかけに、ボクはその魅力に引き込まれていきました。
日本で「泉州」というと、 (少なくとも関西人の皆さんは) 「池田泉州銀行」、甲子園に出た「近大泉州高校」が真っ先に頭に浮かびますけども (!?)、“中国福建省”の「泉州」には馴染みがない人が多いですよね。ボクもそのうちの1人で、朋友圈にアップされた写真を見るまでは、まさか泉州が世界遺産に登録されるほどの歴史と文化を有し、異国情緒溢れる街並みが広がる有数の観光地であるとは思いもよりませんでした。
中国では2023年2月現在、合計56か所が世界遺産に登録されていますが (参考)、その中でも2021年に登録された最新案件がこの「泉州:宋元中国の海洋商業貿易センター (Quanzhou: Emporium of the World in Song-Yuan China)」 なのです。【オフィシャルサイトリンク:UNESCO World Heritage|Quanzhou:Emporium of the World in Song-Yuan China】
泉州は「世界のエンポリウム (商業の中心地)」として、「宋元時代の10〜14世紀にかけて栄え、アジアの貿易ネットワークにおける重要な海上ターミナルとして、地域の経済・文化発展に大きく貢献する役割を果たした」ことがUNESCOに評価されています。
街全体が世界遺産に登録されているヴェネチアやプラハ、丽江 (麗江) などとは違い、泉州は「泉州市内外にある古跡、遺跡、環境や空間など、計22件の構成資産」から成る“史跡群”が世界遺産に登録されている形になっており、なにやら複雑です。。(汗)
これら一連の史跡群は泉州の港があった中心地から山間地帯にも渡る、非常に幅広いエリアをカバーしており、具体的には以下を含んでいます:
1) 九日山祈风石刻 2) 市舶司遗址 3) 德济门遗址 4) 天后宫 5) 真武庙 6) 南外宗正司遗址 7) 泉州文庙及学宫 8) 开元寺 9) 老君岩造像 10) 清净寺 11) 伊斯兰教圣墓 12) 草庵摩尼光佛造像 13) 磁灶窑址 (金交椅山窑址) 14) 德化窑址 (尾林-内坂窑址、屈斗宫窑址) 15) 安溪青阳下草埔冶铁遗址 16) 洛阳桥 17) 安平桥 18) 顺济桥遗址 19) 江口码头 20) 石湖码头 21) 六胜塔 22) 万寿塔
遠くにある遺跡の中には市内から100km以上離れているものもあるため、22個全てを回ることは到底できませんでしたが・・・ 今回は #4 天后宫、#8 开元寺、#10 清净寺、#16 洛阳桥、の4か所を訪問してきました。
ツインタワー有する泉州のシンボル、『开元寺 (開元寺)』
そんなわけで、ボクが泉州到着後に真っ先に訪れたのは、旧市街ならどこでも目視できる「東西2つの石塔」を有する『开元寺 (開元寺)』。コロナ時期には入場するのに微信上で事前登録が必要だったようですが、何のチェックもなく、すんなり中へ。
この开元寺は福建省最大の仏教寺院で、南普陀寺 (アモイ)、涌泉寺 (福州)、南少林寺 (泉州) と並び、「福建四大名刹」のひとつに数えられています。唐代の686年に開祖「黄守恭」によって創建され、周辺の畑に蓮火が咲いていたことから『蓮花寺』と命名されますが、738年に「開元の治」を行った唐玄宗による全国的な仏寺建立を契機に『开元寺』と新たに名乗ることに。
敷地内には街のシンボル的存在である八角五層楼閣式の石塔があり、東西両塔は200mほど離れた距離に位置。再建された南宋時代からその姿をほとんど変えずに現在に至っています。高さ48mを誇る東塔 (鎮国塔) は865年に創建された後、1250年に石造りで再建。一方、西塔 (仁寿塔/無量寿塔) は高さ44m、 916年に当時の福建を治めていた「閩」国王の審知が建立、1237年に現在の石塔となっています。
明代には廃寺となっていたヒンズー寺院の資材を用いて再建が行われ、西塔の4段目に彫られた猿の武将はインドの神猿「ハヌマン (※西遊記の孫悟空はこのハヌマンがモチーフ)」とされています (参考)。ヒンズー教の資材が仏教寺院に用いられてしまうほど、当時の現地の文化が多元化されていたということですね。とても興味深いです。
ボクの訪問時はあいにく小雨が降っていましたが、この雨が良い感じに石塔を濡らしてくれていて、より深みがあって歴史を感じさせてくれる、ドラマチックな雰囲気を作り出してくれました。東西両塔の外観上の違いはボク程度の人間にはハッキリとわからないのですが (汗)、西塔の目の前には梅の花が咲いており、映える写真撮影には西塔の方をオススメします。
日本の木造寺院とは違い、目に見えて重そうで質実剛健なこの石塔の中へ是非とも入ってみたかったのですが、残念ながらそれは許されておらず、遠くから眺めることしかできません (涙)。ここ开元寺には屋根が極彩色に彩られた本殿「大雄宝殿」などなど、結構広い敷地内に見どころはたくさんあるようですが、天気がイマイチだったこともあり、30分ほど見学&写真撮影をさせていただき、次の目的地へと向かいました。
泉州最古の商業街『西街』、钟楼 (鐘楼) に至る歩行者エリア
开元寺を出るとその周辺エリアは泉州で最も早くに開発された、寺の門前街として発達した場所です。赤い屋根の古い建物が現在も立ち並び、宋代の情景を現代に伝えてくれます。実際、この場所には唐宋以来、様々な文化が伝えられた中心として機能し、今も西街は泉州市民にとって「文化、家族愛、郷愁の象徴」なんだとか。
そんな歴史がギュウギュウに詰まった風情ある場所ではありますが、実際にその場を訪れてみると、連休でもないのにとにかく観光客だらけ。。SNSで話題の人気店では20〜30人ほどの行列は避けられず、テラス席から开元寺をベストポジションで眺められる网红カフェ「有鲤天台咖啡馆」にも行けずじまい。
また、ボクはランチ時間帯に西街にいたため、メインストリート沿い食堂に適当に入りましたが、サービス最悪、汚い、高い、で良いとこなし。。そこは泉州の名物料理である「姜母鸭」のお店で、店先にずらりと並ぶ土鍋で鴨肉が煮込まれている様子が魅力的に映り、いい具合に汚い店内も味がるように見え、活気もあって美味しそうに思えたんですが、、やはり観光地のど真ん中でメシを食うバカはいないですよねぇぇ。。
その後、便利 (そう) なAPP「十六番」のオススメするルートを中心に辺りをフラフラしました。が、残念ながら周辺の店は目も当てられないようなクオリティの店ばかり。とにかく人は多いし、メシは駄目だし、行きたいカフェにも行けないし、おまけに雨もひどくなってきたので、過ぎ去りし泉州の長い年月に思いを馳せて感慨に浸る余裕などなく、さっさとこのエリアを立ち去り、钟楼 (鐘楼) へと向かいました。
钟楼は交差点のど真ん中に無造作に放置されたような感じで残されている、1934年に建造されたローマ様式の時計台です。強引に信号機が備え付けられたような出で立ちで、なんとも憎めない様であります。
ちなみにこの辺りはどこかマレーシアのマラッカ (かつてヨーロッパ各国に支配されていた、世界遺産都市) のような雰囲気を持ち合わせており、とてもエキゾチック。钟楼の周りを車やバイクが自由に行き交っている様子を見ると、アジア感倍増! という感じでなかなかエキサイティングな場所です。
現存する中国最古のイスラム寺院、『清浄寺』
钟楼を離れ、高円寺にあるようなオシャレなカフェ「巴浪鱼咖啡馆 Local Fish」での休憩の後、拝観料3元を払ってイスラム教寺院『清浄寺 (Ashab Mosque)』へ。ここは現存する中国最古のモスクであると言われており、北宋代 1009年 (イスラム暦400年) に創建され、その頃は「圣友之寺」という名前でしたが、1315年、長安にて当時の重要なモスクが修復された際、皇帝から「清浄で汚れのない真の神」を意味する「清真」の名がこの寺に新たに与えられたと言われています。
別名「麒麟寺」とも呼ばれる清浄寺ですが、面積は2000㎡以上を誇り、敷地内には入り口に位置する「门楼」、現地の闽南様式とイスラム様式が融合した不思議な「明善堂」、500人を収容できる「新礼拜堂」、礼拝殿跡地の「奉天坛」などがあります。
この奉天坛 (奉天壇) は600㎡もの広さを誇る場所で壁や柱の一部が現存するものの、元々あった屋根は崩れ落ちて消失しており、全く別物の「屋外遺跡」のようです。神聖な場所であるはずなんですが、今は絶好のフォトポットとなってまして、ポーズを決めまくる老若男女がここかしこ。。風景写真をキレイに撮りたいボクにはちょっとしんどい (汗)、、けど、なんとか人がいないときを見計らって上記写真が撮れました。
さて、こんなにも立派なモスクが建造されたのはそもそも、唐宋時代から数多くのペルシャ・アラブ商人が中国を訪れていたためで、当時、泉州には4万にものイスラム教徒が居住していたと言われています。特に元の時代にはイスラム教徒が中国各地で官僚として活躍し、その影響力が広範囲に及んだため「回回遍天下 (イスラムは天下にあまねし [=広く行き渡っている])」と称されたほど。
その後、数々の地震や台風の影響を受け、また、思想的な制限を少なからず受けながらも、1961年には「国家重要文化財」に指定され、1990年代には「中国十大名寺」と呼ばれるまでになりました。また、揚州「仙鹤寺」、広州「怀圣寺」、杭州「凤凰寺」と並び、「中国イスラム教四大古寺」の一つにも数えられています。
映えるピンク色のカトリック教会、『泉州市花巷天主教堂』
泉州ではイスラム寺院のみならず、SNS映えするキリスト教教会も見逃せません。ボクも訪れた、ピンク色の外壁でかわいさ満点の『泉州市花巷天主教堂』は中国人女子の間でも「新晋网红打卡点,一座全粉的哥特式教堂! (新しい映えスポット、ピンク色のカトリック教会!)」と紹介されるなど、大人気の模様。
が、メインの通りからはすぐには発見できず、周りの集合住宅に隠されているかのように鎮座しているので、見逃し注意です。周りの集合住宅は良い具合にくたびれていて、ピンク色の教会と絶妙のコントラストを創出し、より興味深い情景が作り出されています。
清浄寺ほど歴史はありませんが、この花巷天主教堂は1926年にフィリピン系華僑の侨陈光 (陳光純) の寄付によって建設されました。その後は歴史的な経緯で破壊が何度も繰り返され、修復が不可能な状態にまでなったそう。。
しかしながら2001年に再建が始まり、2004年11月から教会として使用が再開されました。占有地1550㎡、建築面積975㎡で、1000人も収容可ということですが、ボクが行った時は中には入ることができず、内部がどれほどの広さなのかはうかがい知ることはできませんでした (残念)。教会の奥側に行くと階段があり、礼拝堂へはそこから中に入れるようです。
教会の外、一階の壁面沿いにはテーブルが置かれていて、そこは自由に使えるようでした。ワイマイ (デリバリー) で注文したコーヒーを飲む観光客もいたり、キリスト像の眼の前に卓球台が放置されていたり、、壮絶な過去をたどった歴史とは裏腹に、今はどこか自由で何かホッコリとした空間です。季節が良い時はここでユックリすることをオススメします。
(実はより深い歴史を誇る) 近代的なキリスト教会、『基督教泉南堂』
泉州にはもう一つ大きなキリスト教の教会、『基督教泉南堂』があります。建物の頂部に真紅の十字架が掲げられており、その近代的な外観が大きな特徴です。泉州におけるキリスト教の布教は、元代1313年に司教管区が置かれるなどして、古い歴史を誇りますが、そこから数百年経ったアヘン戦争直後の1863年、イギリス人宣教師が泉州を訪れ、1866年に泉州南街礼拝堂が建てられたのがこの教会の起源です。
その後、ご多分に漏れず何度も再建が繰り返され、2007年に高さ41.5m、2500人収容の現在の教会が完成しました。オンライン百科事典『尚可名片』の記事によると、この教会は福建省内で最大の規模を誇り、ここに属する信徒の数は6000人に上るとのこと。中国という国の社会的な背景を考えると、結構多いですね (?)。
海の守り神「媽祖」が祭られる『泉州天后宮』
さて、泉州でイスラム教、キリスト教、と来たら、次は「媽祖信仰」について触れないわけにはいかないでしょう。媽祖 (まそ) は「海の守り神」として漁民や船乗りたちから崇められる存在で、その媽祖をまつる廟、それがこの『泉州天后宮』です。
福建省では古くから農村には呪術を用いる「巫女」が存在しており、媽祖は北宋代の960年、泉州の隣の莆田 (Putian) で生まれた巫女でしたが、彼女の死後、海難事故が起きた際に“霊験”を発揮して何度も海難を救ったことからこの地方の郷土神となりました。
その後、1087年に泉州に市舶司が設置されたことで海上交易が高まり、媽祖信仰は泉州を中心に閩南から福建、そして南中国沿岸部へと急速に広がりました。船乗りに信仰されることで福建〜華南での「航海神」となり、明清時代には朝廷から正式な冊封を受けてその地位を高め、最終的に天の后「天后」の称号を得るまでになったのです。
1196年に創建された泉州天后宮はかつての泉州港のすぐそばに位置し、海へ旅立つ人は必ずここに立ち寄って祈りを捧げてから航海に出たということです。そんな天后宮は明代に南海大遠征を行った鄭和による奏上もあって増築が繰り返され、中国最大規模の天后廟となりました。
中国式のおみくじが引けて楽しい『通淮关岳庙』
世界遺産とは関係のないスポットではありますが、多くの人に愛される『通淮关岳庙』。ここは創建されたのがいつなのか明確にわかっていませんが、1986〜1990年にかけて行われた修復を経て今の形になりました。
明の時代には泉州の城を守る7つの城門に、守護神である関羽を祭る7つの関羽廟が置かれていて、その中でもこの通淮关岳庙 (通淮関岳廟) が最も親しまれる廟だったそう。その人気は今も衰え知らずで、お祈りを捧げる地元民であふれかえっています。
中央の「主殿」に関羽と岳飛 (南宋末時代の亡国の英雄) が並び、西側の「三義廟」には劉備、関羽、張飛、諸葛亮が祭られ、東側の「崇光殿」では曽祖光昭公、父成忠公、祖裕昌公が祭られています。
中に入ると更に人がごった返していたのですが、おみくじを引く人が多数見受けられたので、ボクもそれに習って試してみました。まず願い事を決めたらお祈りをして、その後に「おみくじ棒が」たくさん入った竹筒を振り、その中で飛び出した棒を一本抜き取ります。そこには「廿二 (22番)」と書かれていました。
その後、「ポエ」「神筈 (しんばえ)」と呼ばれる木製の神具を振り、うまく表と裏の組み合わせが出たので、担当者からの「神のお告げ」を聞きに行きます。ボクは「家族」を占ってもらいましたが、「全く問題なし」とのこと。一方、一緒に行った友人は「廿三 (23番)」を引き当て、そこには「下下」の文字が・・・・・・ (以下省略)。
泉州市内の、その他の観光スポット
泉州市内にはまだまだたくさんの観光スポットがあり、中でも古い町並みの外観を復元させた「中山路」は市内屈指の観光スポットなんですが、なんかとってつけた感じがわざとらしく、テーマパークにしか見えないのが残念。。
むしろそこから南下し、順に電気屋街、バイク屋街、と順に立ち替わっていく街の様子を眺める方が楽しかったです。この通りは福建省や広東省特有の「騎楼」と呼ばれる建築が立ち並ぶストリートで、この騎楼とは英語でいう「Veranda」。
アーケード状に1階の歩道部分に建物の上階部分が覆いかぶさり、路上側に列柱が続く様式です。 1階部分が商店となっていて、上階が住宅となっている場合が大半。夏の日差しや風雨を避けることができるので、この地方の環境に最適な建築様式なんですね。
他に興味深かったのは、オシャレでこじんまりとしたカフェが多数集まる「金魚路」、対戦時に日本軍と交わった記録が残された「承天寺」あたりかな。その他にも、時間が足りなくて行けずじまいのところも多々 (涙) ありますが、その中でも泉州で唯一5A認定の景勝地「清源山」に行けなかったのは非常に悔やまれます。
清源山は標高わずか500mの小さな山ですが、「閩海蓬莱第一の山」と称えられ、宋代には道教寺院がここに集中していました。当時のもので、中国で最も古いとされている大きな道教の石像「老君岩 (老師像)」には不老長寿の効果があるとされ、その像をなでると120歳まで生きられると言われています。ま、そこまで長生きしなくても良いか・・・と思って行かなかったわけではないのですが、当日の濃霧&霧雨のため、訪問を諦めた次第です。
まとめ
世界遺産に登録されたばかりの泉州はご覧のとおり見所が非常に多く、中国国内にいることを忘れてしまうような異国情緒に溢れるスポットもあり、旅先としてはうってつけの街です。今後も観光客は増加の一途をたどるでしょうし、是非とも早めに訪問しておきたいところです!
この記事にあるとおり、書き留めておきたい事が盛りだくさんの泉州ですが、興味深いスポットは市内だけではなく、郊外の様々なエリアにもちりばめられています。
中国四大名橋として有名な「洛阳桥 (万安橋)」、頭に花飾りを付けて民族衣装コスプレが行える「潯埔村」、中国の大手スポーツブランド「安踏 (ANTA / アンタ)」が本社を構え”鞋都”として有名な「晋江市」など、時間の許す限り郊外のスポットも訪問してきました。その様子はまた別記事で紹介させていただきます!
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